こんにちはぐっさんです。前回に引き続き万博のお話です。
◆なぜ〈太陽の塔〉が生まれたのか◆
当初、〈太陽の塔〉は万博メインパビリオン〈テーマ館〉の一部でした。岡本太郎は大阪万博で〈テーマ館〉プロデューサーという役割を担っていてこの役割に内定したのは開催の3年前の1967年6月。難航の末の人選だったといいます。人間関係、マスコミの評価、失敗の許されない国家事業であった為にみな尻込みした中で誰も引き受け手がいないという関係者の依頼の言葉が偉大なあまのじゃくに火をつけました。この時、岡本太郎は56歳。組織的な動きが必要とされる仕事に「火中の栗を拾うようなもの」と周囲の反対を受けながらも、反対されるほど意欲が湧く、と引き受けたそうです。博覧会場の基幹施設プロデューサーは旧知の建築家・丹下健三。広場を地上30mの大屋根を持つ構造体「スペースフレーム」で覆う計画が決まっていたが、太郎はその大屋根をぶちぬく塔を提案した。「優雅に収まっている大屋根の平面にベラボーなものを対立させる。屋根が30mなら、それを突き破って伸びる70mの塔のイメージが瞬間に心にひらめいた」と太郎は後に説明しています。「あいつをぼかんと打ち破りたい」と言い、丹下健三氏が建造した大屋根の中央をあえてぶち抜いたといいます。このアイデアに設計者たちは度肝を抜かれたそうです。そして1/50の模型を作り発表した時、大屋根をぶち抜く姿に「妙なコケシ人形」「なんだあの牛乳瓶の化け物は」「こんなものを万博のシンボルにするのは日本の恥辱だ」等と批判されたそうです。
◆岡本太郎が〈太陽の塔〉を作った想い◆
当時、太郎がプロデューサーに着任したとき、すでに「人類の進歩と調和」という万博全体の統一テーマが決まっていました。〈テーマ館〉はそのテーマを具体的に、会場に示さなくてはならない。しかし岡本太郎はそのテーマに反発を感じた。共同体としてのリズムを失った世界やGNPが世界第2になり、経済の成長だけに目の色を変え底抜けに浮かれていた人々、夢もなくただ与えられたものに満足するこの国に強い危機感を持っていたといいます。そこで太郎は未来に対する楽天的な夢と希望を打ち砕き、人々が集まる万博を神聖な祭りの場につくり替えることを考えた。お祭り騒ぎではなく、数万年もの間、人類に根差した祭である。そこで〈太陽の塔〉は「原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像」として場を司る。過去‐現在‐未来をワープする壮大な構成で特に過去に重点をおくようなものとした。当初、主催者側は地下に人類の進歩に寄与した偉人や英雄の写真を並べるつもりであったが「世界を支える無名の人々が大事なんだ」と言い太郎はそこに世界各国のもっとも平凡な人々の肖像と彼らの使っていた民具を並べました。
「進歩ではなく地に足をつけ世界を見ること。調和ではなく様々な民族の違いを知る事それこそが出発点なんだ」こうして本来の万博のテーマである「人類の進歩と調和」とは対極的なものとなったそうです。岡本太郎はこう語っています。「僕は進歩と調和という万博のテーマを信じない。調和は妥協に過ぎないし進歩主義という観念自体も信じない」
◆そして、祭りの後〈太陽の塔〉だけが残った◆
1975年、太郎本人から近所の小中学生まで、幅広い、意見を汲んで〈太陽の塔〉を残す方針が決まった。予定外の〈太陽の塔〉が残った理由のひとつには、しっかりした構造がある。仮設的な建物が多い万博会場では異色だった。建築家の吉川健と構造家の坪井善勝が協力し、〈太陽の塔〉が会期終了後も撤去されることなく永久に残る可能性を察し、本格的な建築工法を採用したという。
1978年には、周囲の大屋根やお祭り広場、本来残す予定だった〈日本館〉まで撤去された。2000年代には〈エキスポタワー〉や〈国立国際美術館〉として使われていた〈万博博美術館〉が相次いでなくなった。建築家が作った未来志向の施設は消え、太郎が人間の根源を表現した〈太陽の塔〉が残った。
偉大なるあまのじゃく。時代の頂点に立ちながらその時代を否定した男。それが岡本太郎でした。