1970年大阪万博開催

◆はじめまして◆

はじめまして昨年入社しましたピッカピカのナイスミドルぐっさんです。

おれんじディでケアスタッフとして勤務し、ご利用者様とリハビリや会話を通じ日々勉強させて頂いております。私が育った町(村?)吹田市山田という土地で働く事ができる喜びを感じ日々邁進していきますのでどうぞよろしくお願いします。

今回はそんな私がブログを担当させて頂く事になり、皆さんに馴染み深く、秋のイベント開催地にもなった万博についてお話させて頂きます。

私がここ吹田市に移り住んだ時(1978年)にはすでに日本万国博覧会の終わった後でした。散歩するなら万博に、遊園地行くには万博に、夏場のプールは万博に、と私にとって万博は馴染み深い場所であり、吹田市を語るにはなくてはならない存在であります。

今回はそんな皆さんに馴染み深い万博やそれに関わった人や背景を紹介したいと思います。

 

◆大阪万博開催◆

昭和45年(1970年)3月14日~9月13日までの183日間、高度経済成長の絶頂期に大阪千里丘陵(約350ha)で開かれた日本万国博覧会。国際博覧会史上アジアで初めて開催された日本で最初の国際博覧会でした。

「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、入場者数1日最高83万人、合計6421万人。単純計算してみると当時の日本の人口の約半分以上、すごいですね。2010年に上海万博に抜かれるまで万博入場者数として圧倒的な史上最高記録だった事は記憶に新しいかと思います(ちなみに上海万博は7308万人です)。そして、かつてこのような盛り上がりを見せた万博の会場も当時の施設はほとんど取り壊され、現在はみなさんがご存じの緑豊かな公園とそれを見降ろす『牛乳瓶の化け物』太陽の塔が残りました。

そして、塔を作った方は皆さんご存知ですよね?

「芸術は爆発だ!」の岡本太郎さんだったのです。

当時、私は子供ながらにテレビに出てくる面白いことを言うタレントとしか認識していませんでしたがそんな事はありません、偉大なる芸術家であることはみなさんがご存じの通りですよね。

 

◆太陽の塔◆

岡本太郎氏のデザインによる『太陽の塔』 高さ70m。黄金色の顔が『未来の太陽』、正面胴体が『現在の太陽』、背面が『過去の太陽』を表します。

そして地下には『地底の太陽』がありました。しかし残念なことに万博終了後、行方不明になったとのことです…

当時、万博を盛り上げた建築物は半年間という期間を過ぎほとんどがその役目を終えました。

ではなぜ、太郎さんが作った『太陽の塔』だけが今も残っているのでしょうか?

次回はその当たりについてお話をしたいと思います。乞うご期待!